日本の歴史の奥深さ
縄文時代は紀元前約1万3,000年まえから10,000年以上も続いた日本固有の時代であったということについてご紹介してきました。
今回からは縄文時代を大きく6つの時期(草創期・早期・前期・中期・晩期)に分けて、その時期ごとに縄文時代の流れを見ていきましょう。
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縄文時代・草創期(紀元前約13,000年~紀元前9,000年頃)
長く続いた氷河期が過ぎると地球全体が温暖化していきました。約100年程の短い期間で寒冷期と温暖期が入れ替わり激しい環境変化が起こりました。
縄文時代・草創期の初め頃、日本列島は大陸から離れる直前であったと考えられています。急激な温暖化が進むに伴い、氷河が溶けて海水面が約130mも上昇し、海が陸地に侵入してきました。そして北海道とサハリンが大陸から離れて島となります。
同時期それまでは湖のような状態だった日本海に、暖流の対馬海流が大量に流れ込んでいきました。
そしてその暖流が一方は北海道と本州の間の“津軽海峡”を抜けて太平洋側へ流れ込み、もう一方は“渡島半島”の南東部を北上していくようになりました。
このことが日本列島を温暖で湿潤な気候に変えていくことになります。暖流が生み出す水蒸気が雪や雨をもたらし、日本をはっきりとした四季のある国へと形作っていったのです。
その結果それまでは日本列島は亜寒性の針葉樹林に覆われていましたが、東日本は落葉広葉樹林に、西日本は照葉樹林へと変化し、ブナ・ナラ・シイなどの堅い実が結実するようになりますが、創世記の始め頃は冷涼で乾燥した草原が広がっていたようです。
また温暖化により、マンモスやナウマンゾウ、トナカイ、あるいはやオオツノジカといった大型哺乳動物は紀元前約10,000年程前までにほぼ絶滅してしまい、狩猟の対象はシカやイノシシなどの中・小哺乳動物に変わっていきました。
狩猟中心の生活から、森の生態系の変化による“木の実”や、海面の上昇から“貝”などの“採集”が生業に加わります。また魚類も食料に加わりました。
人々は主に狩猟により食物を得ていましたが、冷蔵庫がある訳ではないので生肉は腐ってしまいます。人間が食べ残した遺骸を他の動物が狙うこともあるので、人間にとっては危険にさらされることになります。
皆さんは“人間は一番弱い動物だ”と感じたことはないでしょうか。小動物のネズミでさえ噛まれれば病気を感染する可能性もありますし、噛まれた傷口を消毒することもこの時代にはありません。
またいつも狩りが成功するとは限らないので、獲物を追って移動しながら見つけた洞穴などに“少人数”で住むという生活をしていたようです。
弓矢の誕生
やがて遠くから獲物を仕留められるように弓矢が生まれます。
そして石鏃(せきぞく)という黒曜石などを鋭くとがらせた石の矢じりなどが付けられるようになります。この弓矢の誕生は、大きな動物や遠くの動物を安全に狩猟するために大きな役割を果たしたのです。
それまでは、落とし穴などの罠や槍、石斧で狩猟をしたりしていたようです。
土器の誕生
日本最古の土器は、現在の青森県東津軽郡外ヶ浜町にある“大平山元Ⅰ遺跡”から発見されました。前回ご紹介した起源前約13,000年前の世界でも最古と言われる土器です。
土器はすべて破片であり、文様はありません。土器には炭化物が付着していて、ということは土器を使って煮炊きをしていたことが分かります。これは世界最古の煮炊きの跡であると言われています。
高度な文明を持つメソアメリカやメソポタミアが、土器を貯蔵や運搬に使用していたのとは異なり、日本では土器を煮炊きやあく抜きにも使用していたようです
定住生活の始まり
さて、土器が誕生したのは偶然の産物の積み重ねかもしれませんが、人々は土器が生まれたことにより、狩猟した動物や貝・魚などを煮炊きして食べたり、採集した木の実を加工したり保存したりすることによって、移動する生活から定住する生活へと変化していきました。
そして土器によって煮炊きするようになると殺菌効果を得ることもでき、人々の健康状態にも大きな影響を与え、人口増加にも繋がっていきました。
また海面の上昇により貝などの海産物を採取する漁場が増えたことも、定住生活に大きく影響を与えたと思われます。多くの貝塚が存在することもその結果といえるでしょう。
竪穴式住居
定住できることが可能になると、それに伴い竪穴式住居が作られるようになりました。
国内で最古級で最大の定住化した集落として発見されたのは、九州南部鹿児島県霧島市の「上野原遺跡」や鹿児島県日置郡にある「金峰町の遺跡」です。上野原遺跡は縄文時代早期前葉の約紀元前10,000年前には10軒程度の集落が形成されていたと推定されています。